「人に優しくしよう」
「思いやりを持とう」
という考えに、反対する人はいないと思う。
しかし、これに
「自分を犠牲にしても」
という言葉を足すと、違和感を覚える人が多いだろう。
私もそう。
とかく世間では
「自分を犠牲にしても他人を助ける人」
を賛美する傾向がある。
しかし、私は賛成できない。
まずは自分が大切。
その上で、余裕があれば他人を気遣えばよい。
たとえば、会社で子供のいる社員が休んだときの穴埋めを、他の社員がすることは多い。
もちろん、誰かが休めば他の人がカバーするのは当然だ。
特に子供はよく体調を崩すので、どうしても子持ちだと休む回数も増える。
状況的には仕方がないことだと、誰もが理解できるだろう。
しかし、休んだ人のカバーをする人が、いつでも気持ちよくそれができるわけではない。
困ったときはお互いさまなのは分かる。
とはいえ、どうしてもモヤモヤすることもあるのだ。
「自分が穴埋めをする回数の方が圧倒的に多いな…」
「私がカバーするのが当然だと思わないでほしい…」
「ギブ&テイクって言うけどギブばかりさせられてるな…」
このように、不満が溜まっていく。
一方的に負担を押し付けられている感覚になるのだ。
(もちろん、子供のいる人が大変なのは分かっている。ここでは感情面を論じているだけであり、子持ちVS子なしの論争をしたいわけではない)
こんなときにはグチのひとつも言いたくなるのだが…
言えないことが多いのが現実だ。
なぜなら、言ったところで
「困っているんだから助けてあげなさい」
「文句を言うな」
「相手はもっと大変なんだから」
という言葉が返ってくるだけだから。
しかし、そんなことは分かっているのだ。
こういうときにほしいのは、理詰めの説得ではない。
共感と、ねぎらいの言葉だろう。
他人を助けたくないのではない。
一方的に自分側に負担がかかる状況がつらいのだ。
それを誰かに理解してほしい。
評価してほしい。
通常の仕事をやった上で他の人の分までやっていることを、認めてほしいだけなのだ。
自分に対する思いやりや優しさを感じないのに、どうして他人に優しくできるだろうか…
私が思うに、自分を犠牲にして他人を助けても、誰も幸せにはならない。
まず、自分自身がつらくなる。
相手や理解のない周りに対する不満や憎しみが積み重なってしまうのは、とても幸せとは言えないだろう。
そして、相手にとっても不幸だ。
助けてくれる人が自分を快く思っていないと知れば、肩身の狭い気持ちになる。
それに、無理してまで助けてもらいたくはないだろう。
だから、自分を犠牲にしてまで他人に尽くす必要はない。
まずは自分を大切にするべきだ。
ギブ&テイクのギブばかりでは、心がすり減ってしまう。
テイクしてこそ、つまり誰かのギブを受け取ってこそ、また他人にギブできるのだ。